尼野ゆたかです。前々回投稿した塩野七生「マキアヴェッリ語録」に続けて投稿するつもりが前回のものに間に合わず、今回という形になりました……気が向いたら見比べて頂けると幸いです。
書名:歴史とは何か
著者名:E・H・カー 翻訳:清水幾太郎
出版社名:岩波書店
おススメコメント:
前々回のオススメ本として取り上げた塩野七生「マキアヴェッリ語録」の中には、以下のような文章も見られます。
「国家を維持していこうと望む者は、自国民を武装させ、自国民による軍隊を持たねばならない」
「現代(十六世紀)の君主や共和国で、戦いに訴えねばならない場合に、自国民からなる軍隊をもっていない指導者や国家は恥じてしかるべきである」
これについて、光文社古典新訳文庫「君主論」を読みますと、マキアヴェッリが生きたフィレンツェ共和国では、モラルにも能力にも問題がある軍事力を傭兵に依存していて、そこへの問題意識から上記の言葉が生まれたことが分かります。
この現代日本と全く異なる前提を塩野七生は説明せず、ただ言葉のみ引用しています。その「語り方」により、現代(二十一世紀の日本)に生きる我々にはある種の方向性を持った認識が与えられる仕掛けになっています。1988年の初版時には更にそうだったことでしょう。
このような「手法」について、歴史学の分野では既に取り上げられてきました。
主たる書籍が、イギリスの歴史家E・H・カーによる「歴史とは何か」です。
本著でカーは「歴史を学ぶには、歴史家を学ばねばならない」と語っています。
「いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです」とも、「歴史家は必然的に選択的なものであります」とも。
カーの金言として知られ、本著でも繰り返し説かれる「歴史とは、過去と現在の対話である」という言葉があります。
対話故に、こちらの語りかける言葉次第で、相手の返答も変わってくる。歴史を考えるにあたっては、心に刻んでおかねばならない事実でありましょう。
カーは歴史家と小説家を峻別しており、塩野七生の本に用いるのはどうかという向きもあるかと思います。しかしその二つがともすれば同じ枠組みで語られる現代において、大変重要な考え方ではないかと僕は思うのです。